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 「職安・・・」
 ところが、この更生計画が中々進行せず、浦和に戻ってから約2ヵ月中途半端の状態が続きました。
 その間、約27年程勤めた会社での色々の出来事が思い出され、特に、同僚の急なリストラや土建用のコンプレッサに関する会社の一方的な経営によるトラブル等の嫌なことが次々と思い出され、かつ今回の更生計画の不手際も重なり、H精機を辞め、かつ更生計画への関与も辞めると言う心が決まりました。なお、この更生計画もO社の社長のガンとした反対で結局はダメになりました。全く杜撰な計画だったと思います。
 一応会社のトップは私の退社を止めましたが私の決心は堅く、50才になる時にH精機を退社しました。昭和53年でした。
 H精機の退社が以上のような経緯のため、退社がまず第1であり、次に何をしようかと言う計画は全く有りませんでした。勿論、妻にも特別な相談をしませんでした。退職金を頂きましたので当座の生活はできましたが、生活が行き詰まることは目に見えているため、とにかく職安(今のハローワーク)に行き、失業保険金を頂き手続きしました。その際に職安の人から貴方は何が出来るのですかと言われました。

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 「資格・・・」
 一応、私のH精機における履歴を述べましたが、主に管理者としての生活が多かったため、職安の人からは貴方の売りの仕事は殆どないと言われました。当時の殆どの会社は、技術者を技術の中心として取扱うよりも管理者としての業務に移行する方針をとっていたと思います。
 そのため、設計とか研究部とかに所属しなかった技術者は管理者としては仮りに有能な人間になったとしても所謂食べることの技術を持つ技術者とはなれません。私も例外ではなく管理者としての技術者であり、職安の人の言葉通り、自分を世の中に売り込む専門技術を持った人間ではなくなっていました。
 この事は、私は今でも後輩に会社の中にいても一匹狼として通用できる人間になるように強く心がけることを進める貴重な経験となりました。
 私もコンサルタントの資格はもっていましたが、このような資格はとても世の中で通用するものでは有りませんでした。所謂食べることのできる資格としては、弁護士,弁理士,公認会計士でありその他の資格は本人の大きな努力及び運がよい場合に食べることが出来るものであると聞かされ、なるほどと思いました。

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 「特許事務所・・・」
 私は技術畠の人間のため、前記の資格では弁理士になる道しかないと思い、その道の研究をしました。それまでは、この弁理士については全くの知識もなく、弁理士との出会いも皆無でした。そのため、この世界におけるすべてのことが不明であり、特別の友人もなく、資料等により色々と調べました。とりあえず特許調査の仕事があることが解りこの仕事をまずやりまた。
 現在では特許調査はコンピュータによって行うことが常識ですが、当時は、そのような入力データは殆どなく、特許公報を基にする調査でした。まず、調査対象の入っている部厚い公報(青本や赤本でした)を手探りして関連技術をさぐり出す所謂手めくり調査でした。
 当時もこの手めくり調査を業とする人々もかなり多く、特許庁の開く時間より前に行って並んで早い順番を取ることがまずスタートの仕事でした。私も毎日今の特許庁の前の昔の建物の正門に8時から8時半頃行きました。1つの調査には約1週間かかり、1日にこなす公報は私の場合は、約20冊位あったのではないかと思います。
 手めくりのためエラーが出やすく、途中で眠くなることがあり、かなり大変な仕事でしたが、私のスポンサがよかったためか一応お金にはなりました。毎日の調査のため、次第に友達も出来て来ましたし、結構楽しい日々が続くようになりました。その過程で弁理士の話しが出るようになり、私も友人のおかげで特許事務所を訪問する機会を得ました。

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 「特許事務所2・・・」
 その折り、その友人が弁理士の方と特許明細書の話しをし、その仕事をやっていることが解り、面白い仕事だし私も特許明細書の仕事をしようと思いました。このためには特許事務所を訪問しなければなりませんが、私には全く訪問先が分からない状態でした。注意して観察すると特許庁の廻りには特許事務所が多く、訪問先には事欠かない状態であることが解りました。そこで、特許明細書を書く力もないくせに特許事務所を軒並に訪問しました。
 今考えても全く無謀なことですが、営業経験があったせいかとにかく毎日色々な所へ訪問しましたが、結果としてダメでした。しかしながら調査の仕事より特許明細書の仕事の方が面白そうであり、自分に向いているように思えたので諦めずに引き続き訪問を繰返しました。
 運がよかったためか、1軒の特許事務所の所長が特許明細書の仕事をくれました。とにかく書いて見て下さいと言うことで所員のS氏から2件の仕事が出ました。この時の喜びは今でも忘れませんし、その特許事務所に対して今も深く感謝しておりますが現在はその事務所の仕事はやっておりませんが中堅の特許事務所として現在頑張っておられるようです。

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  「一匹狼」
 仕事を頂きましたがなにしろ一度も特許明細書を書いたことがない自分でしたので、この仕事はとても恐ろしく感じましたが全力投球で、完成品を提出致しましたが、大きな手直しと叱責を受けました。
 しかし、頑張り抜いてとにかく合格品を作成することができました。その特許事務所がその当時とても忙しかったためとは思いますが、引続き仕事を出してくれましたので大助かりでした。しかしながら、その特許事務所にも色々な人(所員)がおり、その1人に大変苛められましたが根張り抜きその内にはその人とも親しい関係になり、仕事も比較的順調に行くようになりました。私はどんな仕事でも全力投球し、誠意をもって根張り抜くことによって可能となると身をもって体験しました。
 なお、私が27年もメーカに勤務した経験と、やや文章力があったことが成功の1つの鍵であったとも思っております。
 当時世の中の景気が悪くなかったことが幸し、特許明細書の仕事も調査の仕事も順調であり、色々の特許事務所からの仕事も出て一匹狼として仕事をすることが出来、とても嬉しかったことを思い出します。関係者に深く感謝しております。

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                           「北本総合公園」
 昭和59年9月に(有)ピー・エム・シーサービスを設立するまでの約6年間は、私の仕事としては主に特許事務所からの特許明細書の下請け的な仕事と先行技術の調査に明け暮れていたように思います。その間多くの特許事務所とのコンタクトも出来、最高1年に120件程度の特許明細書を作成していたように思います。
 この仕事は自宅で行っていたため経費は余りかからず生活もかなり裕福だったように思います。その間に浦和の家を売り、北本に移り新築することができました。その6年間での仕事上の思いでは色々ありますが特記すべきものは余りないように記憶しています。この間の私の生活における1つの大きな柱は弁理士試験への挑戦でした。
 以下に、弁理士試験への挑戦を約10年間続けた間の色々な思いでをまとめて見たいと思います。但し、以下の記載は弁理士制度への批判の内容が多くなると思いますので、もしこのブログを見て不愉快になる方に対しては申し訳なく思いますが、私見として見逃して下されば幸甚です。

 

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 「弁理士」
 現在は、弁理士の数が極めて多くなったようですが、私が弁理士試験に挑戦した時は全国で4000人位しかいないようでした。
 その内、特許事務所をかまえて経営をされている方は500件程度と聞いておりました。この500件の事務所で日本全体の特許に関する代理人としてのお仕事を行っていたためと当時の特許ブームとが重なり、どこの特許事務所もとても忙しい状態でした。
 その結果、弁理士や特許事務所の所員は一般の人々よりかなり裕福であったように思います。
 特に、弁理士の方々は高収入があったものと思います。従って、特許に関連する人々は恐らくすべての人が弁理士になりたいと思ったことと思います。
 勿論、私も例外ではなく、この弁理士試験に猛烈に挑戦し、約10年(10回の試験)挑戦しましたが結果として残念ながら合格することが出来ませんでした。

 

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 この試験は1次試験,2次試験,3次試験とあり、1次試験は択一試験であり、50問を3時間で回答するものであり、その範囲は特許,実用新案,意匠,商標,パリ条約に関するものであり、1問に5択の質問があり、この中から正解を求めるものでした。
 大体38問位が合格のボーダラインでした。2次試験は1次試験の合格者のみが挑戦できるものであり、特許法,実用新案法,意匠法,商標法及びパリ条約に関する夫々2時間の論文試験とそれ以外に選択項目3件についての夫々2時間の試験でした。
 即ち、8課目についての夫々2時間の試験で、1件について60点以上が合格ラインのようでした。但し、1件でも60点以下のものがあれば不合格であると言われていましたが正確のことは当時の試験制度が薮の中でわかりません。3次試験は所謂面接であり、工業所有権法の全体についての質問テストのようでした。

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  「難関~挑戦・・・」
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 約3000人程度の受験生しかいなかったようでしたが、その当時でも特許関係者は数万人おられたと思いますが、とにかく試験が難しいため受験生としては3000人しかいないようでした。この3000人の猛者が極端の言い方をすると命がけで挑戦するすさまじい試験でした。
 1次試験の合格者は何故か500人程度となり、2次試験の合格者はきまって85人程度であり、3次試験の合格者は80人に何か限定されているように思いました。資格試験にしてはその数字そのものが何かおかしいと今でも思っていましたが、事実です。
 各試験共、主として工業所有権に関する法律的な試験であり、法文系でない私にはとても大変でした。勿論、すべての受験生は所謂ゼミに通って何回も模擬テストを繰り返し行いました。
 それだけではダメで弁理士の個人レッスンを受けることも必要でした。私も工業所有権法の条文全体が黒くなるまで勉強し、とにかく10回の内5回は1次試験を合格することができ、2次試験に挑戦しましたが残念ながら不合格の結果に終わり、再挑戦のファイトがなくなってしまいました事は事実です。
 今新ためて思っても残念ですが、とても挑戦する力は残っておりません。折角1次試験に合格しても2次試験からの挑戦となり、前の年に1次試験が合格になったに拘らず次の年で不合格となり、更にその次の年での挑戦をせざるを得ないと言うとてもきびしい試験でした。

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 この1次試験にも色々と問題があり、50門の内、必ず2~3は正解が別れる矛盾があり、どの内容が正解であるかは試験官に聞いても当時は回答が得られない状態でした。この辺がとてもおかしい状態ですが事実です。
 従って、合格ラインが仮りに38門とした場合、37門正解の人でもあるいは合格者の中に入ることができた人も数多く存在しているものと私は思います。1年間涙を飲んだ人々が数多くいたと思います。
 また、2次試験についても不合格の内容については一切聞かせてくれませんでした。
 前記のように2次試験は8件についての試験ですがその内の3件は選択課目のため、私は機械技術者であったため材料力学と機構学と構造力学を選択しました。
 この選択が間違っていたことは後になって解りましたが、私にとってはこの選択課目以外は得意でもなく、余り興味がないため仕方ないことと思っています

 

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 この2次試験についても色々問題があります。まず、必須課目の5件については問に対して十分に回答すればよいものでなく約5枚位の中で整然とまとめるものが合格論文になるようでした。
 私は自分の持つ智識を試す試験だと思い、10枚も書いたのですが、この事自体が既に不合格の原因のようでした。
 勿論、字の汚い事もマイナス要因であったと思います。この必須課目はさておいて選択課目は技術系にとっては大きなハンデギャップでした。計算しなければならない試験であり、本来ならばスケールやコンパスが必要の内容に拘らず一切持ち込みは禁止されていました。勿論、計算機などは持ち込めません。
 従って、私は小学生のように筆算で問題を解かねばならず、途中の計算方式が正しければ、たとえ回答が違っていても加算されるものだと思いますが、答えだけを検索しているような試験でした。
 そのため、答練会でものすごくできる人でも不合格となり、この人はきまって技術者の人達だったと思います。
 そこで技術系の人達は選択課目として技術系の内容をやめて、商品学や憲法等に切り替える人が多くなりましたが、私は技術者としての誇り(ポリシー)があり、別のものに移行しなかったのが不合格となった大きな原因の1つと思っています(事実はわかりません)。
 以上のように試験そのものに色々と矛盾がありますが、見事合格した方々もおられるわけですから、試験に受からない私の話は愚痴かも知れません。

 

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 私は以下のように考えを持っています。
 特許関係者はすべて弁理士になりたいと思っているため、特許関係者は本来、自分の仕事に全力投球すべきですが、どうしても試験のことが気になり、仕事と試験との両方に常に力をさくことになります。
 よって、特許関係者は特許屋としてのレベルの向上よりも試験への合格がどうしても優先し、何となく暗い状態が続行していることは事実です。試験日が近づくと日頃の仕事を少なくし試験勉強に力を入れると言う状況はすべての特許関係部門の中に発生します。
 私は魔の月と思っています。この月になると私への下請け仕事が多くなるのがその1つの証拠です。また、何回も挑戦して合格しない先輩と新人の若い合格者の間でどうもすっきりしない雰囲気があり、とてもいやな感じでした。
 私は今でも、このような嫌な状況が存在しないような試験制度にしてもらいたいと思っています。

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 私の改善策としては、まず弁理士でなければ出願の代理人になれないと言う法律を改善すべきものと思います。弁理士としては出願業務は単なる1つの業務に過ぎず他に多くの仕事があります。
 なお、弁理士試験の中には特許明細書の作成のテストもなく、それに関する色々の必要業務への試験もないため、合格者の中には出願書類を書けない人々も多く存在すると思います。試験への合格のみに力を入れているため専門職としての智識が不十分だと思います。
 今の弁理士が本当に企業、特に中小企業の代理人としての力があるか否かは大きな問題です。従って、出願に関する仕事は、実際に出願業務を行うことの可能な特許専門家に道を開くべきものではないでしようか?私の1つの業として、弁理士試験の1次試験は合格し、特許明細書業務に5年位はつき、専門家としての仕事を少なくとも5年から10年位経験し、弁理士の数人の方々が推薦する特許技術者に対しては少なくとも弁理士補位の称号を与えて、出願業務位は出来るようにしたら如何と思います。
 このような制度にすると、弁理士試験にのみ集中する人々が少なく、実際に力をつけるように日頃の業務を行うようになり、中小企業、特に小企業に対しては有効な特許支援ができるようになるのではないかと思います。
 このブログで私見を述べても全く効果がないとは思っていますが、日頃から思っていることをとにかく書いて見ました。私見が採用されることを祈っていますが恐らくダメでしよう。また、私もこの意見を強く主張する勇気も力もないことは事実です。

阿刀田実の「あとから 実る」130

2008/10/31(金) 午前 10:28

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                    戦後復興の象徴~長岡の花火
“忘れ得ぬ思い出”・・・エピローグ
 古い記憶を頼りに忘れ得ぬ思い出を書いて来ましたが、私の頭の中ではそろそろ終りに近づいた感じがします。
 大学を出てM精機に約27年位勤めて途中で退職し、それから今日まで約30年主として特許関係の仕事をやって来ましたが、この長い30年の特許生活に対しては思い出と言う感じがなく業務の連続のような気がし、思い出として書くより現実的な思いとなります。恐らく、この仕事をやめた時点では思い出として色々と残るものが有ると思いますが、今の所、忘れ得ぬ思い出としての記載はこの辺で終了したいと思います。
 書き続けて来た思い出を少し見直すと、まだまだ書き残しているものが多いと感じましたが、とりあえずこのシリーズは終了したいと思います。
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 ブログは連続して記載することが必要なようですので、これからは30年間特許戦略及び経営戦略のコンサルタントとして過ごして来た過程の中での色々の考えや私見や問題点と思われるものを書いて見たいと思います。
 読まれる方々には恐らく面白くないと思いますが、その中でも少しでも参考とするものがあれば幸甚に思います。