106

image

 一方、メニュール症候群は一生完治しないものですが、退院して、間もなく子供を授かりました。とても嬉しく、どんな逆境にも負けてたまるかと言う気持が強く働きました。
 かなり難産でしたが無事に男の子が生まれました。4200gもある丈夫で丸々とした赤子でした。恐らく神様が私を助ける思いで与えてくれたものと深く深く感謝しました。
 篤(アツシ)と命名し、この子のために命がけで生き抜いて行こうと決心しました。当時私は46才でしたのでとても遅い子持ちとなりましたが、そんなことはすべて忘れこの子のために長く行き抜こうと思いました。折角可愛い子供ができたのに地方営業行きが決まり、単身赴任となりましたがとても辛い気持であったことを今でも忘れません。
 会社における地位が高かったためか、私の営業行きは営業所長と言う肩書で、地方の営業所のトップと言う仕事を任されました。50才になるまでの約4年間を営業畠で過ごしましたが、この4年間には色々な出来事があり忘れ得ない大きな思い出であり、この営業生活が後の私の人生にとってとても役に立つ重要な仕事であったと今では営業に回されたことを深く感謝しております。
 営業は九州,広島,名古屋、最後は大阪と西日本関連の営業所を回りました。次にこの4年間の忘れ得ぬ幾つかの思い出を書いて見ようと思います。

107

image

 昭和25年入社し昭和49年までの24年間、私は技術者として色々の仕事を任されて来ました。この経験は現在の仕事の中でも極めて有効に生かされており、とても辛いことも色々と有りましたが自分にこの技術的経験を与えてくれた会社に今はとても感謝しております。
 長男の篤が生まれた昭和50年2月に私は地方営業に配属転勤になりました。営業は会社にとってとても大切な職務ですが、技術畑一筋でやって来た私にとってはとても嫌な感じでした。
 しかしながら、前にも書きましたように私は性格的にやや楽天家であり、常在戦場的な考えをもっていたためと会社の色々なトラブル状況を目にしていたため結果としてむしろ喜んで赴任しました。
 営業経験がまったくないため、当初は九州の他の会社の営業部に派遣され色々と勉強しました。これもとても有難いことでした。九州での武者修業が一応終了し、広島において西日本で担当の営業本部長に就任しました。

108

image

 A精機では全国の主要地に営業所を配置する体制をとっていましたが、私が広島に就任した時点では営業部を東日本と西日本とに分離して、互いに競い合わせる作戦がとられました。
 私の西日本営業本部は近畿,中国,九州,四国をテリトリとするものでした。夫々の地区にはそれまでは支店長(ベテランの人々です)がおり、夫々活躍していましたが東西の営業本部になったため、彼等の上に私が本部長として配属されたことになりました。
 営業の全くの素人の私が上に来たため、当初は色々なトラブルがあり、私も大変苦労しました。A精機はルートセールスのため、その土地の代理店(販売店)との協調がとても重要の仕事でしたが、中間の人々の邪魔等があり中々馴染めない状態が続きました。

109

image

 一方、私は自分ではそれまで気が付きませんでしたが、対人関係の付き合いが比較的上手であり、営業の本来の仕事より販売店との付き合いが上手く出来、次第に信用されるようになり、部下からも今度の本部長は営業は下手だが、販売店との付き合いが上手であると言われ、販売店とのトラブルシェータのような仕事を主にやらされて来たことを思い出します。
 そのため、大きな失敗もしました。A精機の機械は1台数千万円から一億に近い機械であり、支払い条件によって実際に入金される現金の値が大きく変ります。仮りに半分現金残りを250日サイトの手形と言う条件で現金の支払い日や手形の支払い条件を少し変更するだけでも金利を計算すると大きな差が生じ、常に頭の中をクールにしておかないととんでもない損が生じます。
 一番大きい損は確か50万円位のものがあり、ものすごく上から叱られたことをよく記憶しています。また、小企業相手の商売で現金を5千万円手渡しされたことがありました。この企業は辺鄙な所にあり、銀行に入金するまでの途中の電車の中でとてもハラハラしたことを記憶しています。

110

image

 折角の東西営業本部の体制がトップの勝手の考えで変更になり、東西営業本部が解散となり、私は名古屋営業部の所長に赴任しました。
これが私の実際上の営業経験でした。A精機のライバルは大きな会社が多く、かつ販売店も一流の業者であり、1台の機械を売るために営業所員全体が必死の努力をしました。
 工場における生産の苦労も大変ですが、第一線の営業部の苦労は確かに大変なものでした。
 かつて営業が工場に対して勝手なことを言ってクレームをつけていたことを恨んでいましたが、已むを得ないことであったなあと思いました。
 名古屋営業部は1年位しかいませんでしたが、ここで大変なことが起りました。A精機では工作機械とコンプレッサを主商品として製造販売しており、その販売は販売店を利用するルートセールスでした。各営業所には工作機械担当の営業員とコンプレッサ担当の営業員とが分離された状態で配置されていました。

111

image

 名古屋営業所におけるコンプレッサ担当の営業員は男子12名で女子2名の体制であり、工作機械の方は男子10名で女子1名の体制でした。一方、販売店の数は大小合わせて150社位あったと思います。この販売店はA精機のコンプレッサのみを取り扱っているものが大部分でしたが他社のコンプレッサの販売も兼ねている店もありました。私自身も名古屋に赴任した後、ライバル会社からの中堅の数社の販売店をA精機専門の販売店に転換させることを実施しました。
 本社(トップ)の突然の指令が発せられるまで各営業所(名古屋は勿論ですが)は販売店と一緒になってA精機のコンプレッサを互いに協調しながら上手に販売を行っていました。
 ところが、全く突然のことですが、A精機はコンプレッサの製造は一応そのまま実施するが、販売はK社にまかせる政策をとりました。このK社はコンプレッサ等の産業機械のメーカとしては大手の有名な会社であり、販売戦略としては直販体制をとっている会社でした。
 そのため、各営業所のコンプレッサの担当の営業員は一応解雇又は工場側への転属となり、すべてのコンプレッサ関係の販売店は取り引きを打ち切りにするとの指令が出されました。あまりにもすごい指令のため、当初は疑いましたが事実でした。
 しかも、この大きな問題の処置はすべての現地の営業所の所長の責任において実行し、本社の役員等はさし当り一切関与しないと言うものでした。この指令の結果のすさまじさは今でも思い出すと恐ろしくなるものでした。所長と営業員との信頼関係が一瞬して全くなくなり、特に販売店からの攻撃はすさまじいものでした。販売店にとっては死活問題であり、中には刃物を持って営業所に怒鳴り込みに来た店長もいました。
 私は解雇される営業員の就職先を探す努力をしましたが、その努力は無用であると言われ所長は販売店対応のみに没頭するように命令されました。今でもひどい会社だったなあと思います。私は名古屋に行ったばかりでしたが、名古屋に長くいた営業課長は販売店との人間関係も深くとても哀れな状態でした。

112

image

 なんとか数ヶ月かけて私は営業課長と共に処置をしましたが、大阪営業所がとても混乱状態に落ち入り、長く大阪の営業所長をしていたH氏はその重圧に耐えきれず自己退社しました。そのため、その穴埋めに私は急遽大阪転勤を命ぜられました。
 大阪は名古屋より大きく、それだけに以上の問題はとても解決できない状態でしたが、これも何人かで数ヶ月かけて一応は処理しましたが、営業所は大きな信用の失遂してしまったことは明らかでした。その折り、私も会社を辞めようと思いましたが、まだ子供が1才位であり、その決心がつきませんでした。
 コンプレッサが以上のような状態でしたが会社と言うものは化物であり工作機械の方は特に売れ行きが悪くなることは有りませんでした。
 また、コンプレッサもK社の販売するタイプと異なる工場向きの新製品が開発され、この新しいタイプのコンプレッサをルートセールスする策が出されました。このため、私も辞めるチャンスを失い、そのまま大阪営業所で所長としての仕事を続けることになりました。

113

image

         「近畿~大阪・・・」
 M精機の大阪営業所における私の仕事は工作機械及び定置式コンプレッサの販売の責任者としての仕事であり、特に当初は定置式コンプレッサの販売店の作り出しにありました。
かっての土建用のポータブルコンプレッサにおける販売店との極めて悪い関係もあり、この定置式コンプレッサの販売店の確保には大変苦労をしました。勿論、この苦労は大阪営業所のみではありませんでした。大阪営業所のテリトリーは近畿地方全体と四国全体であり各県に販売店を作り、その信頼を得るための努力が毎日続きました。
 私は新潟の長岡の生まれであり、東京、特に埼玉にその後永く住んでおり、関西は全く知らない人間であり、なんとなく関西を嫌っていましたが、大阪で仕事をしているうちに関西人の仕事のやり方が合理的であり、次第に好きになって来ました。
 また、食物も色々と珍しいものも多く、商店にも特徴があり、仕事にも段々馴れて来て、毎日が楽しくなって来ました。商売上の幾つかの思い出がありますが、特記すべきものとして約10台の工作機械を主として私の力で売り込んだ出来事について少し触れてみたいと思います。

114

image

 売り先の工場は、M精機のライバル中のライバルのM製作所の機械が殆どであり、M製作所の社長自身もこの工場に力を入れておりました。このためM精機の機械はそれまでは1台も買って頂けない状態でした。
 私も勿論無駄な努力とも思いましたが何となくその工場の雰囲気が好きになり、その工場を見学するつもりで乗り込みました。
 一般に営業所の所長は営業畑の人が殆どであり、私のように丸切りの工場人はその当時は皆無のようでした。工場長の案内で工場見学している内に、昔の製造部長としてのクセが蘇って来たのでしようか色々な質問を工場長にしました。その質問の内容は忘れましたが、工場長が私の指摘にすごく感銘し、その後も色々と話し合うようになりました。
 また、その工場の社長もどちらかと言えば技術畑の人で技術的の論争をしばしばするようになりました。そこである時、M精機の機械の特長をPRして是非試しに1台購入してもらう話しがまとまりました。
 その当時はM精機の工作機械の売れ行きは悪くなく、その工場(Y工場と仮称)への1台の工作機械は特別の注意を払ったものではなく通常の生産機が回されて来ました。
 M精機のこの機械はすぐれた機能や性能を有するものでしたが、品質管理の不十分さとその当時の数値制御機構部の不安定さがあって、時々トラブルが発生していることを私は知っていましたのでY工場への機械については営業所の全員が注意を払って納入しました。

115

image

 「大阪暮らし・・・」
 ところが、納入して間もなく、制御不備により機械が暴走し、損失し、加工品にもオシャカができました。そのため、Y工場の社長も工場長も烈火のごとく怒り、私の信頼は全く無くなりました。
 本当にこの時はまいりましたが、つぎのような提案をY工場の社長にしました。勿論、良品の機械はすぐに納入しますが、その間、私共営業部の全員が作業員となってY工場の製品の加工を行い少しでも助けになりたいことを申し出ました。勿論、先方は営業部品が加工しても“ロク”なものは出来ないと言われましたが、とにかくやらせて下さいと実行しました。
 工場からも数名の応援を頼みましたが新しい機械が立ち上がるまでの約10日間、大阪営業所の所員は本当に徹夜で頑張りました。この努力と新しく納入された機械が良かったことが重なり、失墜した信頼がやや感謝の気持に変り、引き続き機械を購入することを約束してくれました。その後の営業所員全体の努力と私の頑張りによりM製作所の機械が順次M精機のものに変り、私の在職中には約10台の機械を購入して戴きました。この経験は私の生涯におけるとても大切なものとなっております。

116

image

 「さらば大阪・・・」
 大阪での営業生活が約2年半位続き、私なりに成果も上げ、大阪の街も好きになりそのままの生活を続けようと思い、家族も呼び寄せました。寮(マンションの一室)の前にはとても広い庭園があり、広場も池も小山風の凹凸地もあり、子供と共に楽しく遊ぶことができました。大阪万博の後の遊園地も近くにあり、休日には親子で楽しく遊ぶ日々が続きました。
 ところが、再度、トップより命令が下り、大阪を離れる事態が生じました。タイヤメーカとして有名なB工場の協力会社でタイヤの金型を製作している会社(仮りにO社とします)が設備への過剰投資のため倒産する羽目となり、この更生計画への参与を命ぜられました。即ち、M精機の関連しているH自動車からん管財人が出て、私が工場長として現場を見ると言うものでした。
 トップの話しではこのO社は技術的にはとてもよい会社であり、B工場としては是非仕事を進めることを強く望んでいたとのことでした。なお、トップは私に君は元々技術者であり、営業よりも技術畠の者がよいのでないかとの有難い(?)お言葉と、更に子供が小さく、55才の定年で退社することを避ける1つの手段でもあるとの言葉がありました。
 素直に理解すれば有難い話しのようですし、私も子供の事も考え、かつ工場を建て直すことへの技術屋としての闘争心とが重なり、この命令を受けてH精機から退社を前提とした出向の道を選択し大阪を離れました。

続く